2015年10月25日

人権の享有主体性について〜その2




では、法人の人権享有主体性についての判例を2つほどご紹介いたします。



どの判例もとても有名ですのできっちりとおさえてしまってください。



南九州税理士会の政治献金事件(最判平8年3月19日)


【事案】
強制加入団体である税理士会が、税理士法を税理士業界に有利なものにするため、その資金として会員の税理士から特別会費を徴収た上、それを政治連盟に寄付しました。それに対して怒った会員が、その行為は会員の思想・良心の自由を侵害し、税理士会の目的の範囲外の行為なのではないかとして訴えを起こしたというものです。



【判決要旨】
「税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するものであっても、 税理士法49条2項で定められた税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。

会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含される。

税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論じることはできない〜法があらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立された〜強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない

その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、会員に要請される協力義務も、おのずから限界がある。
特に、政党など規制法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして〜個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄である。」




群馬県司法書士会の震災寄付事件(最判平14年4月25日)


【事案】
群馬県司法書士会が阪神淡路大震災によって被災した兵庫県司法書士会に対して復興支援拠出金(3000万円)を寄付するために、会員から特別負担金を徴収することを決議しました。これに対して会員がその行為は司法書士会の目的の範囲外の行為であるとして訴えを起こしました。



【判決要旨】
「本件拠出金は,被災した兵庫県司法書士会及び同会所属の司法書士の個人的ないし物理的被害に対する直接的な金銭補てん又は見舞金という趣旨のものではなく,被災者の相談活動等を行う同司法書士会ないしこれに従事する司法書士への経済的支援を通じて司法書士の業務の円滑な遂行による公的機能の回復に資することを目的とする趣旨のものであったというのである。

 司法書士会は,司法書士の品位を保持し,その業務の改善進歩を図るため,会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法14条2項),その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で,他の司法書士会との間で業務その他について提携,協力,援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。そして,3000万円という本件拠出金の額については,それがやや多額にすぎるのではないかという見方があり得るとしても,阪神・淡路大震災が甚大な被害を生じさせた大災害であり,早急な支援を行う必要があったことなどの事情を考慮すると,その金額の大きさをもって直ちに本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものとまでいうことはできない。したがって,兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは,被上告人の権利能力の範囲内にあるというべきである。
 そうすると,被上告人は,本件拠出金の調達方法についても,それが公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情がある場合を除き,多数決原理に基づき自ら決定することができるものというべきである。これを本件についてみると,被上告人がいわゆる強制加入団体であること(同法19条)を考慮しても,本件負担金の徴収は,会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではない。」



それぞれ似たような事案ですが、結論が異なっていますね。


南九州税理士会事件では、法人の目的の範囲外。思想信条の自由の侵害になる。

群馬司法書士会事件では、法人の目的の範囲内。思想信条の自由の侵害にはならない。




内容と結論をきっちり抑えてしまいましょう。



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2015年07月18日

(憲法)人権の享有主体性について




日本国憲法には素晴らしい人権規定がいくつも列挙されていますね。(素晴らしいかどうかは人によりけりですが…)



でもこの憲法で保障されている人権は、様々な理由により、無条件に誰に対しても何に対しても保障されるというわけではないんですね〜。



人権を享有する主体とその範囲についてをお話していきます。具体的には、「天皇」・「未成年」・「法人」・「外国人」が問題となります。




1、天皇の人権享有主体性



肯定説、否定説、折衷説がありますが、天皇という極めて特殊な地位から、全ての人権の享有主体となるわけではありません。



制限される人権
・選挙権・被選挙権
・政党加入の自由
・外国移住の自由
・職業選択の自由
・学問の自由
・表現の自由 などがあります。




2、未成年の人権享有主体性



未成年者も成年者と同様に日本国民ですので、当然に人権享有主体性は肯定することができます。しかしながら、成年者とは違い、判断能力がまだ成熟しきっていないという観点から、一定程度の制約を受けることがあります。⇒パターナリスティックな制約



※パターナリスティックな制約
個人の自己決定権に対して、公権力が自己加害の防止目的で課す制約です。原則的にはできないとされていますが、例えば、未成年者の自立を助長・促進するような場合は例外的にできるとされています。



具体例
未成年者飲酒禁止法
未成年者喫煙禁止法
青少年保護育成条例など…




3、法人の人権享有主体性



法人にも人権の享有主体性は認められるでしょうか。この点、肯定説と否定説があります。



肯定説:法人にも基本的人権の保障は及ぶが、それは性質上可能な限りにおいてである。


否定説:法人には基本的人権の保障は及ばない。



肯定説の理由は、法人の活動による利益は個人に還元され、また、法人も自然人と同じく社会的な実態を備えた社会の重要な構成要素であるから、というものです。否定説の理由は、元来、人権というものは、自然人を対象に認められてきたものであり、法人の利益は自然人に還元されるのだから自然人のみに認めれば十分である、というものです。



この点、最高裁は、肯定説の立場から、次のように述べています。



八幡製鉄事件(最大判昭45年6月24日)
「憲法第3章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきであるから、会社は、自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有するのである。政治資金の寄附もまさにその自由の一環であり、会社によってそれがなされた場合、政治の動向に影響を与えることがあつたとしても、これを自然人たる国民による寄附と別異に扱うべき憲法上の要請があるものではない。」




この判例は、八幡製鉄という会社が、特定の政党に政治献金をし、それに対して株主が株主代表訴訟を起こしたという事案に対するものです。これによれば、性質上可能な限り、法人にも人権の享有主体性が認められるということになります。(性質説
そして、この判例は、会社の権利能力を定款所定の目的の範囲内であるとし、政治献金を目的の範囲内であるとしました。



続きは次回で…
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2014年08月22日

(憲法)「君が代」の伴奏と起立斉唱の拒否 その2




◆「君が代」の起立斉唱拒否事件(最判平23年5月30日)



【事案】


公立高校の教諭Aは、「卒業式では、国旗に向かって起立し、国家を斉唱すること」という校長の職務命令に従わず、それを理由に定年後の非常勤職員の選考で不合格と判定されたため、当該校長の職務命令は憲法19条に違反しているとし、訴えを起こした。



似たような事件は他にもたくさんありますが、今回は比較的新しい事件を取り上げてみます。



果たして最高裁は何といったのでしょうか。



【判旨】

「起立斉唱行為は,教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」

「このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。」

「本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。」

「本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。」




結論においては、「君が代」ピアノ伴奏拒否事件のと同じで、憲法19条に違反しないとするものですが、内容は一歩踏み込んだものとなっています。



それは、国旗に向かって起立し国歌斉唱を行う行為(個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為)が、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるということを認めたことです。



これが、君が代の伴奏と起立斉唱行為との違いからくるものなのかどうかは定かではありませんが、内容的にはほんの少し教諭側に傾いたものとなっています。



そして、結論は同じですが、「このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。」として、判断基準を指し示しています。



その結果、「本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。」として、当該職務命令の合憲を導いています。



判決文を詳しく見たい方はこちら⇒最高裁判例を知ろう!












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2014年08月13日

(憲法)「君が代」の伴奏と起立斉唱の拒否 その1




平成11年8月13日に、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が施行されましたね。全2条からなる大変短い法律ではありますが、今回は、この国旗国歌、とりわけ国歌について争われた訴訟を取り上げてみようと思います。



※国旗国歌法についてはこちらを参照ください。⇒国旗国歌法




◆「君が代」のピアノ伴奏拒否事件(最判平19年2月27日)



【事案】

公立学校の音楽専科の教諭が、入学式の際に、「国家斉唱のピアノ伴奏をするように」との校長による職務命令を受けたが、同教諭はそれを拒否したため、戒告処分を受けた。これを不服とした同教諭は、当該職務命令は、憲法第19条の思想および良心の自由を侵害するものとして、当該職務命令処分の取消しを求めて訴えを提起した。



日本の教員には、国家や国旗、国歌というものにアレルギーを持つ方が多いように感じます。それはかつての日本における軍国主義による人権の侵害・蹂躙といったものを思い起こさせるからだというのが理由です。


なので、今回の事例のように、それを思い起こさせるような職務命令には、憲法を盾に取って裁判で争うというケースが多く見受けられます。


似たような裁判はいくつもありますが、今日はその中でも有名なものをピックアップしています。



【判旨】

「学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは、上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできない。」

「他方において、本件職務命令当時、公立小学校における入学式や卒業式において、国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり、客観的に見て、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。
 本件職務命令は、上記のように、公立小学校における儀式的行事において広く行われ、a小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し、音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。」

「本件職務命令は、上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。」





ここでは、



・君が代ピアノ伴奏の職務命令が、直ちに歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではない。

・君が代ピアノ伴奏は、通常想定され期待されるものであり、特定の思想を外部に表明する行為ではないし、特定の思想を持つことを強制したり、禁止したりするものでもないし、特定の思想の有無についての告白の強制でもなければ、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものでもない。




との理由で、当該職務命令を憲法第19条に反しないとしました。



その他にも、公務員の地位の特殊性や職務の公共性を理由に当該職務命令の合憲を導いています。詳しく判例を見たい方はこちらをご覧ください。⇒最高裁判例を知ろう!



次回は、これまた君が代訴訟ですが、今度は、ピアノ伴奏ではなく、起立斉唱行為が問題となった事件の判例となります。












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2014年06月19日

(憲法)パターナリスティックな制約〜過去問/平成20年/問3〜解説2




今回は、平成20年憲法問3の各肢について解説していきます。


前回、議員の発言趣旨をできる限り要約しましたが、ここでさらに短くしてみます。


「不健康になる自由がある!」
     ↓
「だから国が制約するな!」(原則)
     ↓
「でも未成年はいい!」」(例外)

     
とにかく議員は「自由」と言うものを主張していますね。(発言では、自己責任という言葉を用いていますが、責任と自由は表裏一体の関係です)

そして、それに対して「おせっかい」をするなと言っています。(そんなに国にどうのこうのされるのが嫌なんでしょうか)

でも、未成年に関しては少し妥協しているという感じでしょうか。



では、議員の発言趣旨と明白に対立する肢を探しつつ、各肢の検討に入ります。


肢1「文明社会の成員に対し、彼の意思に反し、正当に権力を行使しうるのは、他人に対する危害の防止を目的とする場合である。」


この肢、5つの中で一番難しいんじゃないでしょうか。

なぜなら、文明社会の成員って何のことなのか分からないからです。議員の発言趣旨では、成年と未成年を分けていると考えることができますから。

仮に、文明社会の成員が成年だけと解すると、この肢は明白に対立するとはいえません。

議員は成年に対しては、自己加害防止目的で介入するな、と言ってはいるけれども、介入できる場合を名言していません。しかし、議員の人権を重んじる、個人主義的な考え方から、他人の人権を保護するような場合は、国家が権力を行使することができる、という発想に立っているだろうと推測できます。なので、むしろ肢1は議員の発言と合致すると言ってもよいかと思います。

しかし、仮に、この文明社会の成員を未成年のみ(それはまずないでしょうが…)と考えると、ある程度対立することになります。なぜなら、議員の発言趣旨では、未成年に対しては「おせっかい」な制約もOK!だと言っているからです。他人に対する危害の防止も当然あるだろうけど(ここは上記の推測を働かせなければいけない)、おせっかいもOK!なんだから、肢1とは明白ではないまでもある程度対立すると言っていいかと思います。

では、文明社会の成員に、成年も未成年も含まれていた場合、議員の発言と合致する内容と、ある程度対立する内容が混じることになるわけですが、少なくとも合致する部分はあるわけで、「明白に対立する」とは言えないと考えていいのではないでしょうか。

この肢は考えるのに一苦労です(行政書士試験もレベルが上がったものですね…)


肢2 「日本国憲法がよって立つところの個人の尊重という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによって初めて確実なものとなる。」


個人の尊重は、不当な干渉から自我が保護されて、確実となる。と要約します。

議員は、個人の自由(自己決定権)という立場から、国が国民におせっかいを焼くことは、原則として許されない。と言っています。

肢2は、不当な干渉を「おせっかい」のこと、自我を「不健康になる自由」と考えると、不健康になる自由がおせっかいから守られて初めて、個人の尊重というものは確実なものになるとすることができます。

議員の発言趣旨の原則部分とかなり内容が合致しますね。これは明白に対立するとはいえないと考えられます。


肢3 「人の人生設計全般にわたる包括的ないし設計的な自立権の立場から、人の生と死についてのそのときどきの不可逆的な決定について、例外的に制約をすることは認められる。」

この肢も悩みます。最後の部分に、「例外的に制約をすることは認められる」とあることから、未成年の例外の場合とおもいきや、最初は「人の〜」から始まってますから、成年も含まれると考えられます。成年について制約できる場合を議員は何も言っていませんが、成年だからと言って、全くパターナリスティックな制約がダメなのかというとそうは考えにくいです。

未成年に関しては、人格的自立の助長や促進のためだけど、成人についても、例えば自殺をする自由なんてものについては、生死に関わるそのときどきの不可逆的な決定であって、それについて制約を課すことも許されてもおかしくはない…そう考えることも別におかしいことではないと思います。議員は直接このことに触れてはないけれども、議員の発言趣旨と「明白に対立するか」と言われれば、そうではないと考えるほうが妥当なのかなと思います。


肢4 「その人間がどういう将来を選びたいと考えるかよりも、その人間がどういう将来性を有しているかという観点を優先するのは、「個人の尊重」原理の要請である。」


議員は、国の関与は極力排除し、「個人の自由」と言うものを重視し、確保しようという考えを持った人だと推測することができますね。

個人の自由意思を重視することが、「個人の尊重」原理の要請であると考えているだろうと推測できます。肢4の文で、どちらが個人の自由意思を表したものかは分かりますね。

そう逆ですね。正しくは、「その人間がどういう将来性を有しているかを考えるよりも、その人間がどういう将来を選びたいかという観点を優先するのは、「個人の尊重」原理の要請である。」

こうすれば、議員の発言趣旨と完全に合致しますね。なので、この肢は、間逆のことを言っているので、「明白に対立する」と考えていいかと思います。


肢5 「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」


憲法第13条の条文からですね。

不健康になるかどうか自由に決めることができる(自己決定権)は第13条の幸福追求権から導くことができます。議員はこの自己決定権に対する国の介入は、ダメなんだと言っています。であれば、幸福追求権から導かれるこの自己決定権は、最大限尊重しなければならない…となります。

議員の発言趣旨と肢5は合致する内容であるということができるかと思います。


この問題は「明白に対立」する肢を選ばせる問題だったわけですが、それは肢4です。最初に意外と簡単な問題だと言ったのは、この肢4が明白に対立するというのが結構簡単に分かってしまうからです。如何に早く肢4を見つけることができるかどうかがポイントです。肢1から順番に考えていってしまうと、途中でわけがわからなくなって嫌になってしまうかもしれません。

全ての肢を細かく検討して答えを導き出そうとすると、かなり難しい問題なのではないかと思います。特に肢1と肢3は。


ということで、長くなってしまいましたが、今回はこれで終わりとさせていただきます。


本日もお読みいただきありがとうございました。












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2014年06月09日

(憲法)パターナリスティックな制約〜過去問/平成20年/問3〜解説




憲法/過去問/平成20年/問3←クリック



この問題、すんなり解くことができましたでしょうか。



文章も長いし、見慣れない出題形式なので、見た瞬間に捨て問とすることも選択肢の一つかもしれません。



しかし、単純に条文を暗記する勉強ではなく、こういう問題にしっかり対処できる能力を身につけることが、本当の意味で法律を習得するということなのではないかと思います。


【解説】



まずこの問題、当然、議員の発言趣旨を読むことから始まるわけですが、長ったらしいですよね。



こういう場合は、要点をつかんで短くまとめてしまえばいいんです。



まず、発言の一段目です。


「更にちょっと深く議論を進めたいんですけれども、(法案の)13条に国民の責務という条文がございます。これについては先ほどの議論の中で努力規定という表現が提案者の方から聞かれましたけれども、しかしやはり国民の責務ときっちりうたっているわけでございます。」



食育基本法案の第13条に努力規定ではあるが、「国民の責務」という文言がある。と言っています。



参考までに食育基本法第13条を見てみましょう。


食育基本法第13条 国民の責務
国民は、家庭、学校、保育所、地域その他の社会のあらゆる分野において、基本理念にのっとり、生涯にわたり健全な食生活の実現に自ら努めるとともに、食育の推進に寄与するよう努めるものとする。




そして、発言の二段目です。


「この健全な食生活に努めるという責務、これをなぜ国民は負わなければいけないんだろう。」「裏を返すと、不健康でもそれは自己責任じゃないかという、こういう議論もまたあるわけです。」



一段目の「国民の責務」とは何のことかと言うと⇒これを「健全な食生活に努めるという責務」であると言っていますね。



そして、この「国民の責務」である「健全な食生活に努めるという責務」に対して⇒そんな責務って必要?べつに不健康だって、それはそれで個人の自由なんじゃないの?という趣旨のことを言っていますね。



では発言の三段目です。


「そして、やはり自分が自分の健康を害することに対して何らかの制約を課す、これは法律用語でいいますと」、「自己加害の防止」であり、「これパターナリスティックな制約といいます。」「で、自己加害に対して国家が公権力として介入するのは原則許されないわけですね、これは法律論として。」



「自分が自分の健康を害することに対して何らかの制約を課す」とありますが、これは、国民は放っておくと食生活が偏ったりして、不健康になるから、国が食育基本法第13条で「国民の責務」として「健全な食生活に努めるという責務」という制約を課す…ということを言ってますね。



そして、これを「自己加害の防止」つまり、国民が不健康になることへの防止であると言い、さらに、これを別名「パターナリスティックな制約」と呼ぶと言っています。



そして最後に、「自己加害に対して国家が公権力として介入するのは原則許されないわけですね」…これは、国家が国民に対して「パターナリスティックな制約」をすることはダメだということですね。



では発言の四段目です。



しかし、「未成年の人格的自立の助長や促進というものに関しては、限定的だけれどもこのパターナリスティックな制約は認められるであろうという、これが一つの法律の議論なんです。」



「しかし」…逆接の接続詞から入ってますので、発言の三段目とは逆のことを言うはずです。



その内容は、未成年の人格的自立の助長や促進については、パターナリスティックな制約はOK!であると…




全ての発言を短くまとめます。


「食育基本法案第13条に、「国民の責務」として「健全な食生活に努めるという責務」がある。しかし、健康であろうが不健康であろうが、そんなものは自己責任なんだから個人の自由である。」

「だから、法律議論として、いくら不健康になることの防止であったとしても、国家が国民に対して、責務(制約)を課すのはダメだ!」

「でも、未成年の場合は、例外的に許される場合もある。」





こんな感じになるでしょうか。ここまで要約し、理解してから問題に入ります。




各肢の解説はまた後日とさせていただきます。




本日もお読みいただきありがとうございました。












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2014年06月04日

(憲法)パターナリスティックな制約〜過去問/平成20年/問3





前回、公共の福祉の一元的内在制約説では、人権制約の根拠は、「他者の人権である」ということを説明しました。


しかし、人権制約の根拠はこの他にも存在します。



それが今回の「パターナリスティックな制約」というものです。


パターナリズムとは何でしょうか?少し辞書を引いてみましょう。


パターナリズムとは…雇用関係など社会的な関係において成立している,父と子の間のような保護・支配の関係。父親的温情主義。 (Weblio辞書)


このように書かれてます。強者と弱者、保護する側とされる側、このような間柄のことを指していますね。


なので、パターナリスティックな制約とは、

例えば、父親が子供に対して「テレビゲームは目に悪いから、一日1時間まで!」などの言いつけをするように、強者があたかも父親のように、弱者に対して、弱者の自己加害防止を目的として、弱者の自由な意思決定を制限すること、とでも表現できるでしょうか。



簡単にいえば、「おせっかい」だということですね。


国が、あらゆる面で脆弱な国民に対して、まるで親のようにおせっかいを焼くことによって(自己決定権の制約)、国民の自己加害を防止してやろうという発想です。
(例えば、覚醒剤を使用する者に対しては、罰則が設けられていますが、これは覚醒剤を使用することにより、自己の心身が薬によって侵され、最終的には死に至ってしまうこともありうるという自己加害を防止するということを根拠に定められた制約だと言えます。※尚、覚醒剤の規制は、パターナリスティックな制約以外にも、覚醒剤を使用し、錯乱状態に陥ることにより、他者への危害の可能性もあるところから、公共の福祉の一元的内在制約説を根拠にしているとも考えられます。)



一元的内在制約説では、人権制約の根拠が「他者の人権侵害防止」だったのに対し、パターナリスティックな制約では、その根拠が「自己加害の防止」となります。



では、ある程度パターナリスティックな制約のことを理解したところで、平成20年問3の問題を見てみましょう。



【問題】


次の文章は、参議院内閣委員会で食育基本法案が議論された折のある議員の発言を、その趣旨を変更しないようにして要約したものである。この発言の趣旨と明白に対立する見解はどれか。

 「更にちょっと深く議論を進めたいんですけれども、(法案の)13条に国民の責務という条文がございます。これについては先ほどの議論の中で努力規定という表現が提案者の方から聞かれましたけれども、しかしやはり国民の責務ときっちりうたっているわけでございます。」
  「この健全な食生活に努めるという責務、これをなぜ国民は負わなければいけないんだろう。」「裏を返すと、不健康でもそれは自己責任じゃないかという、こういう議論もまたあるわけです。」
  「そして、やはり自分が自分の健康を害することに対して何らかの制約を課す、これは法律用語でいいますと」、「自己加害の防止」であり、「これパターナリスティックな制約といいます。」「で、自己加害に対して国家が公権力として介入するのは原則許されないわけですね、これは法律論として。」
  しかし、「未成年の人格的自立の助長や促進というものに関しては、限定的だけれどもこのパターナリスティックな制約は認められるであろうという、これが一つの法律の議論なんです。」
(出典 参議院内閣委員会会議録平成17年5月19日)


1. 文明社会の成員に対し、彼の意志に反し、正当に権力を行使しうるのは、他人に対する危害の防止を目的とする場合である。

2. 日本国憲法がよって立つところの個人の尊重という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによってはじめて確実なものとなる。

3. 人の人生設計全般にわたる包括的ないし設計的な自律権の立場から、人の生と死についてのそのときどきの不可逆的な決定について、例外的に制約することは認められる。

4. その人間がどういう将来を選びたいと考えるかよりも、その人間がどういう将来性を有しているかという観点を優先するのは、憲法の「個人の尊重」原理の要請である。

5. 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。



ちょっと一風変わった出題形式ですよね。


見慣れない出題形式なので少し戸惑われた方も多かったのではないでしょうか。しかし、こういう一風変わった問題って意外と簡単だったりするもんなんです。実際、この問題はパターナリスティックな制約というものを知らなくても何とか国語力のみで解くことはできなくもないです。



少し考えてみてください…詳しい解説は次回にさせていただきます。



今回もお読みいただきありがとうございました。












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2014年05月26日

(憲法)人権の制約原理 その3




前回の一元的外在制約説は、「公共の福祉を人権とは無関係の概念であると考え、人権制約をその無関係なところ(外在)から人権の種類などは関係なく行う」という発想でした。


しかし、これは、明治憲法下の法律の留保と変わりなく、その気になれば如何様にでも人権を制約することができるというもので、今日の個人の尊厳・尊重という憲法の精神に相容れないものであったわけでした。



では、次に登場した考え方をご紹介します。



・内在外在二元的制約説



今度は、公共の福祉というものを、外在という考え方だけではなく「内在」という考え方も持ち出して制約の根拠としてみようという発想です。


具体的には、人権制約ができる場合として、「人権相互の矛盾や衝突を調整するために行う場合」と「経済政策や福祉政策といった国家の積極的な政策目的を達成するために行う場合」の2種類があって、前者を内在的制約、後者を外在的制約とし、憲法に公共の福祉について明文規定のある経済的自由権(第22条・第29条)国家の積極的施策によって実現される社会権については、外在的制約に服するのに対して、それ以外の自由権については、内在的制約に服するにとどまるというものです。



そして、この説は、憲法第12条と第13条の規定を訓示的・倫理的規定であると解して、13条の「公共の福祉」は人権制約の根拠とはならない…としています。




ちょっと難しいですが、簡単にまとめます。


・経済的自由権(第22条・第29条)と社会権は外在的制約に服する。

・それ以外の自由権は、内在的制約に服する。

・12条と13条は訓示的・倫理的規定。

・13条の「公共の福祉」は人権制約の根拠とはならない。



ここは、まぁこういうのがあるんだな〜程度で覚えておけば問題ないかと思います。ただこの説に対する有名な批判が一つあるので紹介しておきます。



13条を訓示的・倫理的規定と解してしまうと、今日重要性が増しているいわゆる新しい人権(プライバシー権・名誉権etc)を根拠づける包括的な人権規定と解釈できなくなり、不都合が生じることになる



確かにそうですね。第13条の幸福追求権が具体的な権利規定であるからこそ、そこから新しい人権が根拠づけられるわけであって、単なる訓示的・倫理的規定であれば、それが難しくなるのは道理というものでよね。




では、次に今日の通説的見解である「一元的内在制約説」について考えていきたいと思います。



・一元的内在制約説



この説は、「公共の福祉」のことをこのように言っています…「人権相互の矛盾や衝突を調整するための実質的な公平の原理」であると。


そしてこれは、「全ての人権に論理必然的に内在している」のであると…



先の内在外在二元的制約説でも少し出てきましたが、一体これはどういうことなのでしょうか。



前々回の例を出して少し考えてみます。



Aさんが、「私には表現の自由が憲法によって認められている!だから、人のたくさんいる公園で、Bさんの悪口(例えば前科とか)を言いふらす権利があるんだ!」と言って、手当たりしだいBさんの悪口を言いふらしていたとします。


確かにAさんには憲法上表現の自由が認められているので、どこで何を言おうが自由なはずですよね。でもこの場合、Aさんの表現行為によってBさんは知られたくもないことを他人に知られることによってその名誉を侵害されているわけです。Bさんからしたらたまったものではありませんよね。


ここに、人権相互の矛盾衝突が発生しています。Aさんの表現の自由 VS Bさんの名誉権…というわけです。



現在、Aさんの行為は刑法によって侮辱罪や名誉棄損罪によって規制をかけられています。



これは、この説による「公共の福祉」を使って解決を図ったものと考えられます。



つまり簡単に言うと、AとBの人権が対立している⇒この説の公共の福祉は、Bの人権の保護を優先した⇒だから、Aの人権は制約を受けた。


これをさらに簡単にすると、「Aの人権はBという他人の人権によって制約を受けた」…とすることができます。



これこそが、まさにこの説の言っていることで、一元的外在制約説は人権制約の根拠を「人権とは無関係なところ」とするものであったのに対し、


一元的内在制約説は、人権制約の根拠を「人権(他の人権)」とするところに特徴があります。そしてここでいう「公共の福祉」の概念は、憲法の規定にかかわらず、全ての人権に内在している(備わっている)と考えているのです。



「公共の福祉」について理解は深まりましたでしょうか。次回は少し過去問に触れてみようかと思います。












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2014年04月19日

(憲法)人権の制約原理 その2





前回、人権には「不可侵性」があるというお話をしました。


しかしながら、それは絶対無制約なものではなく、一定の制約が必要であるということでした。


では、人権は、如何なる場合に、何を根拠にして制約されることになるのでしょうか。


この点、憲法上、以下のようなものが挙げられます。

・公共の福祉
・パターナリズム
・憲法秩序保護
・特別権力関係
(もはや支持されてない)



では、このうち、もっとも重要である「公共の福祉」について考えてみたいと思います。


まずは、これに関する条文を見てみます。


日本国憲法第12条  
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

日本国憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。




どちらの条文も、「公共の福祉のために〜」とか「公共の福祉に反しない限り〜」と、人権は「公共の福祉」に対しては、何らかの配慮をしなければならないということが見て取れます。



ここで「公共の福祉」っていったい何なの?という発想になるわけです。



憲法にも、「公共の福祉」とは何なのか、ということはどこにも書いてありませんし、この概念は極めて抽象的で、何となくはわかるけれど、その意味についてよく理解している人はそう多くはないのではないかと思われます。



しかし、この公共の福祉という概念は、人権制約の根拠としてとても重要な存在となっています。



この概念を事細かに説明しようとすると、とてもブログ記事では書ききれないので、ここでは学説を紹介しつつ、ある程度大まかに説明していきたいと思います。




○公共の福祉の意味



・一元的外在制約説



なんだか難しい言葉が登場してきましたね〜(汗)



しかし、内容は至って単純で、第12条と第13条の公共の福祉が、人権の種類や内容を問わず、一元的な人権制約の一般原理であり、公共の福祉という概念は、人権の外側にある…とする考え方です。



一瞬、なんのこっちゃ?と思うかもしれませんが、要するに、公共の福祉を人権とは無関係の概念であると考え、人権制約をその無関係なところから人権の種類などは関係なく行うことができるという発想なんです。



「人権制約を人権とは無関係なところから行う」…なんとなくヤバそうですよね。



これは、戦後間もなく考えだされた発想ですが、なんとなくヤバそう…と言ったのは、この説によると、国家が恣意的に人権を制約することが可能となってしまい、個人主義に則った憲法の精神に反してしまうからです。



例えば、「政府は何としても税率を上げたいので、税率引き上げに関する政府批判を一切禁止する」なんてことも可能となってしまうわけなんです。



しかしよく考えてみると、これって明治憲法下の「法律の留保」によく似てますよね。



明治憲法下の法律の留保とは、全ての人権は、法律の範囲内においてしか認められない…とするものです。法律ならいかようにでも人権を制約することができたわけなんですね。



なので、この考え方は、明治憲法から日本国憲法に変わった意味がないじゃないか〜などと批判され、次第に支持を失っていくことになったわけです。




次回は、さらに、内在外在二元的制約説、一元的内在制約説について考えていきます。












お読みいただきありがとうございました。


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(憲法)人権の制約原理 その1





「人権侵害だ!」などと言われたことはないかと思いますが、少なくともこの言葉をどこかで耳にしたことはあるのではないでしょうか。



例えば、週刊誌が、芸能人についてのあることないことを記事にすると、その芸能人が「人権侵害だ!」とか言って提訴するなんてことは昔からよくあることです。



この「人権」という概念は、今でこそ最高の価値を持ち、尊重されるべきものとして普遍的な存在であるわけですが、特に戦前・戦中は、この人権が国家によってないがしろにされ、国民はとてもつらい思いをしていました。


そこで、戦後、これを反省する形で日本国憲法が制定され、その中では、「個人」というものが、尊重・尊厳の対象となり(個人主義)、個人の持つ「基本的人権」として明文化・具体化されたわけです。

(余談:現行憲法は、実質的に占領国の意図の下に作られた経緯があり、さらにその成立手続きには疑義の残る部分があり、完全な自主憲法とは言えないところがあります。)



憲法第11条を見てみましょう。

日本国憲法第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。




全て国民は基本的人権を共有し、それは侵すことのできない永久の権利である…と明記されていますね。

(※この「基本的」という言葉には特段の意味はないとされています。せいぜいとても重要なものという意味が込められいるにすぎないとされています。)


人権というものはとても大切なものであり、故に、それは侵してはならないものだ!というわけです。これを「人権の不可侵性」と言います。



しかし、人権には不可侵性があるとはいっても、何があろうとも絶対に侵してはならないものかというと…全くそんなことはなく、人権というものは、必要に応じて、制約される必要が認められなければなりません。



仮に、人権が無制約で完全なものとして認められてしまうと…



例えば、

Aさんが、「私には表現の自由が憲法によって認められている!だから、人のたくさんいる公園で、Bさんの悪口(例えば前科とか)を言いふらす権利があるんだ!」と言って、手当たりしだいBさんの悪口を言いふらしたとしたら、Bさんとしてはたまったものではありません。Bさんにも名誉権やプライバシー権があるわけですから、それが侵害されてしまいます。


それから、

C小売店が、「私には憲法上、営業の自由が認められているんだ!だから、大麻を販売する権利だってあるはずだ!」とか言って、大麻を自由に販売するなんてことになると、世の中は薬物中毒者だらけになってしまい、公の秩序が著しく乱されてしまうことになります。



このような事態を避けるためにも、人権は一定の「制約の下」に置かれなければならないわけなんです。



しかし、「人権」というものは、最大限尊重されなければならないものですので、そう簡単に制約するなんてことはできないわけなんですね。


国家が恣意的に、なんかムカツクからこの人権制約します…なんてのは許されないわけなんです。



そこで、如何なる理由があれば人権を制約することができるのか、その具体的な根拠は一体何なのか?ということが問題となってくるわけなんです。



次回は、「公共の福祉」についてのお話とさせていただきます。




本日もお読みいただきありがとうございました。


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2014年02月16日

(憲法)第13条 幸福追求権 その2




さて、憲法第13条後段の幸福追求権は、新しい具体的権利を導き出せる存在であるということでしたが、ではそこには一体どのような権利が含まれるのでしょうか?


何でもかんでも含まれるのか、それとも、ある程度限定的なのか、その範囲が問題となります。



この点、学説においては、次の2説が存在しています。


・一般的自由権説

・人格的利益説



一般的自由権説について、


この説は、幸福追求権を自分に対する支配権とみて、公共の福祉に反しない限り、一般的な自由を拘束されない権利であるとするものです。


この説に立つと、およそ一般的な行動については全て保障されることになります。(喫煙、飲酒、自動車の運転、運動、散歩とか…)


この説の論者は、憲法の精神は、まず「自由」であるということが大前提であり、だからこそ、この自由の範囲を広くとるべきであり、それにより、憲法上の問題として扱うことのできる範囲も広くなるため、人権保障に資すると言います。



なるほど、確かにその通り!




では、人格的利益説について、


この説は、幸福追求権を、より道徳的な観点から、人格的存在としての個人に必要な権利だけが含まれるとするものです。


この説の論者は、一般的自由権説に立つと、ありとあらゆる行動が権利として認められてしまうため、「人権」というものの価値が希薄化してしまい、人権にとって好ましくない。


だから、道徳的な観点から、人格的存在として必要不可欠なものだけという一定の範囲を予め作っておく必要がある…と言います。



なるほど、これも確かに!



ではどちらが良いのか?


答えとしては…どちらでもないという感じでしょうか。


どちらがいいのかは、個別の事案において、具体的に利益考量を経て明らかにされるべきもので、一概にこちらだとはなかなか言えないというのが現状かと思います。


判例もどちらの立場に立っているのか、なかなか判然としないところがあります。(若干、一般的自由権説に立っているのかなという感じもしますが…)



では、おさらいの意味を込めて、以下の問題を見てみます。


【問題】
幸福追求権に対する学説の支配的見解は、これを包括的基本権であると把握する。しかし、実際に、幸福追求権からどのような具体的権利が導き出されるかについては、見解が分かれる。明文で規定されていない権利・自由で、最高裁判所が認めているのは、「何人も、その承諾なしに、みだりにその容貌・姿態を撮影されない自由」と「前科をみだりに公開されない自由」のみである。


さて、○か×か?




【答え】
×


幸福追求権が包括的基本権であることは正しい。どのような具体的権利が導き出されるかについては、一般的自由権説と人格的利益説があり見解が分かれている、その通り。しかし、憲法が明文で認めていない権利・自由で、最高裁判所が認めている代表的なものは、


・何人も、その承諾なしに、みだりにその容貌・姿態を撮影されない自由(最判昭44.12.24)

・前科をみだりに公開されない自由(最判昭56.4.14)

・名誉権(最判昭61.6.11)

・何人も指紋の押捺を強制されない自由(最判平7.12.15)

・何人も個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公開されない自由(最判平20.3.6)




などがあります。よって×。



幸福追求権については以上とさせていただきます。




本日もお読みいただきありがとうございました。


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(憲法)第13条 幸福追求権 その1




もう冬も終わりを迎えようとしているのに、相変わらず寒いですね〜。昨日なんかは、私のいる愛知県でも珍しいほどの積雪を記録しました(@@)


いい加減寒いのはご勘弁…という感じです(´^`;)



では、今回は憲法第13条の幸福追求権についてです。まず、条文から確認していきます。


憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。




さて、この条文の後段で言う、「幸福追求に対する国民の権利」(以下、幸福追求権)って一体何なのでしょうか?


幸福追求権?なんか、なんでもかんでも入りそうで、極めて抽象的な感じを受けますよね〜。そうです。メチャクチャ抽象的なんです!


ですから、その権利の性質が如何なるものであるのか(具体的な独自の権利性があるのかどうか…)については争いが存在します。



では、今日における通説的な見解を簡単にお話していきます。



その昔の話

当初の学説では、


この幸福追求権の規定は、憲法上の位置と条文の構成と、そして、極めて抽象的な表現であるということ。


また、幸福追求権は各個別の人権規定で相当程度に具体化されているし(思想良心の自由とか表現の自由とか…)具体化されていないものもあるけど、それは立法で実現可能なんじゃないの?という疑問。


さらに、13条後段に独自の権利性を認めてしまうと、13条全体に規範性を認めてしまうことになるが故に、同条の「公共の福祉」名の下による制限も広く認めてしまうことになり、基本的人権にとってあまり良いこととは言えないということ。



等々の理由から、この規定には、具体的な独自の権利性がないものとして解釈されてきました。なので、この規定は単に、国家に対する宣言的な性格を持つものであると解釈されていたのです。



しかしながら、


今日の話


時代が移り変わると供に、社会状況も様々に変化し、憲法制定当時には想定することができなかった人権を新たに解釈によって生みだす必要が生じてきたこと。


憲法というものは、明示的に列挙された人権だけを認めているわけではなく、明示されていない権利についても広く認めても良いという趣旨のものであるということ。


第13条は、個別の人権規定に共通する基本原理であること。



などなどを理由に、今日においては、幸福追求権の規定に、具体的な権利性を認める解釈がなされています。



なるほど〜具体的な権利性が認められているってのは分かる。でも、基本的人権についての規定は、各個別の人権規定で、それなりに広く、相当程度具体化されているはずだけど、なんかバッティングするんじゃない?と言う疑問が出てくるかもしれませんね。



この疑問を解決するキーワードが『補充性の原則』というヤツです。



この補充性の原則とは…

憲法は比較的幅広く権利・自由を保障しているので、新しい自由・権利が必要となった場合においても、まずは、各人権規定を検討し、各人権規定に包摂されるかどうかを判断すべきであり、一般条項的な意味合いの条文(憲法第13条)の適用には慎重さが求められるということから、


幸福追求権は、各人権規定を適用してもなお、人権保障をしきれないような場合に限って、補充的に持ちだされるべきものだ」という原則です。


ですので、これを格好良く言うと、


憲法第13条の幸福追求権は、個別の各人権規定では救済しきれない新しい侵害態様を解決するための包括的な基本権である


とすることができるかと思います。



なるほど〜。13条の幸福追求権は、具体的な権利性が認められているけれども、それは、各人権規定の在り方に一定の方向性を指し示す総則規定(包括的基本権)であり、さらに、それは補充性の原則によって、限定的に持ちだされるべきものなんだ〜ということになります。



そうなると、この幸福追求権という権利には何が含まれることになるのだろう…と疑問が出てきますよね。



それは次回にさせていただきます。




今回はこの辺にて失礼します。お読みいただきありがとうございました。


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2014年01月04日

(憲法)外国人地方参政権〜最高裁判決



外国人に選挙権を与えるべきだ!という議論は、ずいぶん前から盛んに行われています。


某政党などは、何が何でもこの外国人参政権を取り入れたいようで、幾度となく国会に法案を提出しています。

一体外国人参政権にどんなメリットがあるのか、個人的にはいくら考えても理解しがたいものがありますが、この外国人参政権について裁判で争われたことがあります。



【事案】
日本生まれの定住外国人であるAは、外国人であることから、選挙人名簿に登録されておらず、地方選挙における選挙権を行使することができない。そこでAは、憲法上、定住外国人にも地方選挙における選挙権は保障されるものであるとして、選挙管理委員会に対して、選挙人名簿に登録するよう求めたが、却下されたため、却下決定の取り消しを求めて訴訟を起こした。


平成7年2月28日の最高裁判決です。


・憲法第3章の基本的人権は、外国人にも保障されているのか?

判例はこの点、

「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。」


として、権利の性質上、日本国民を対象としているもの以外は、外国人にも保障は及ぶとしています(性質説)



・では、憲法第15条第1項についてはどうか?

日本国憲法第15条第1項
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。




これについて判例は、

「憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。」


として、ここで言う「国民」は日本国籍保有者である日本国民を指し、外国人は第15条の保障の対象外であるとしています。


つまり、国政選挙においては、仮に外国人参政権を認めてしまうと、それは憲法違反であるということになります(学説で言うところの禁止説)
国政選挙においてはこの「禁止説」が多数説であり、これは一般人の理解としても妥当なものだと思います。



・では、憲法第93条第2項についてはどうか?

憲法第93条第2項
地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。



この規定は、地方選挙についての規定ですが、判例はどのように言ったのでしょうか?

「地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。」


ここで言う「住民」とは、やはり、日本国民を指し、地方選挙における選挙権は外国人にも保障されないと言っています。


なので、ここまでを見れば、国政選挙と同じ禁止説に立っていると考えることができますが、問題はその後の判例内容なのです。


行政書士試験に判例は欠かせない!重要判例集



「このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。」


ここでは、「法律で地方選挙における選挙権を付与することは憲法で禁止されていない」としています。


つまり、この判例は、外国人の地方選挙権は、それは違憲であり禁止されているとする禁止説、又、それは合憲であり、むしろ憲法が要請しているという要請説のどちらもとらず、「国会の裁量で立法してもしなくてもよい」としたわけです。

これを「許容説」と言い、判例はこの立場を明らかにしました。


ですので、先の民主党政権下においては、この外国人地方参政権が、「国会の裁量による立法」で成立するのではないかと少しひやひやしていた方も多かったのではないかと思います。


外国人に地方レベルといは言え選挙権を与えることは、安全保障上の問題もありますし、そもそも「国民主権」というものが一体何なのか、その存在意義が問われることになってしまうのではないでしょうか?


本日はもお読みただきありがとうございました。




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2013年09月15日

(憲法)郵便法違憲訴訟



2020年、ついに東京にオリンピックがやってきますね♪♪

オリンピック招致活動にに携わってくれた方々にはとても感謝、感謝です♪♪

皇族の政治利用だなんだってごちゃごちゃ言う人がいますが、そんなの関係ない〜って感じで今から楽しみで仕方ありませんよ♪


それではウキウキ気分で本日もいきましょう!

郵便法違憲訴訟についてです。


【事案】
AはBに対する債権を回収するため、Bの有する預金債権について勝訴判決に基づき債権差押命令を申し立て、これに基づいて裁判所が銀行に差押命令正本を特別送達したところ、郵便局員が差押命令正本を銀行の私書箱に投函したため、送達が1日遅滞し、差押を察知したBが差押債権を回収(預金を引き出した)したので、Aが差押債権の券面額相当の損害を被ったとして、送達事務を行う国に対して国家賠償を請求した。しかし、国の責任を免除する郵便法の規定を理由に控訴審が棄却したため、これらの規定は憲法17条に違反するとして上告した。


郵便局がらみの紛争です。

暑い日も寒い日も毎日毎日、郵便局員さんは皆さんの手紙や荷物を配達しています(あの赤いバイクで…)ホントに御苦労さまという思いです。

ただ、取り扱う手紙や荷物たるや…それはもう膨大な量に及ぶため、時にはミスを犯してしまうこともあるでしょう。その度に損害賠償を請求されてしまっていては郵便料金が高額になってしまったり、迅速・円滑なサービスに支障が出てしまったりすることもあるでしょう。


という事で、郵便法旧68条においては次のように郵便局(国)の責任を制限する規定が置かれていました。

※この判例は平成14年のものであり、現在、郵便局は「日本郵便株式会社」として民間企業になっていますが、当時はまだ国の機関でした。


郵便法旧第68条第1項(損害賠償の範囲) 
郵政事業庁長官は、この法律又はこの法律に基づく総務省令の規定に従つて差し出された郵便物が次の各号のいずれかに該当する場合に限り、その損害を賠償する。
 一 書留とした郵便物の全部又は一部を亡失し、又はき損したとき。
 二 引換金を取り立てないで代金引換とした郵便物を交付したとき。
 三 小包郵便物(書留としたもの及び総務省令で定めるものを除く。次項において同じ。)の全部又は一部を亡失し、又はき損したとき。



そして、2項において、その賠償金額を制限する内容の規定が置かれていました。

さらに、郵便法旧73条においては、

郵便法旧第73条(損害賠償の請求権者) 
損害賠償の請求をすることができる者は、当該郵便物の差出人又はその承諾を得た受取人とする。

として、請求権者を制限していました。


68条で「次の各号のいずれかに該当する場合に限り」とありますが、これは、これ以外の場合は一切賠償しませんという意味です。

つまり、一般郵便は何があろうと一切責任を負いません、そして書留郵便については亡失、き損の場合でのみ限度額を上限として責任を負いますということになります。


ってことは、今回の事例のように遅配や誤配による損害はそれがたとえ郵便局員の故意や過失によるものであっても、一切賠償しなくてもよいということになりますね。


第一審、第二審は郵便法を理由にAの請求を棄却しました。しかしこれに不満を持ったAは最高裁に‘国の責任を制限した郵便法68条、73条は憲法第17条に違反する'として上告したのでした。


先に憲法第17条を見ておきましょう。

日本国憲法第17条  
何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。


では、判例はこの事件について何と言ったのでしょうか?

憲法第17条について、

「憲法17条は、…その保障する国又は公共団体に対し損害賠償を求める権利については,法律による具体化を予定している。これは、国又は公共団体が公務員の行為による不法行為責任を負うことを原則とした上,公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない。そして,公務員の不法行為による国又は公共団体の損害賠償責任を免除し,又は制限する法律の規定が同条に適合するものとして是認されるものであるかどうかは,当該行為の態様,これによって侵害される法的利益の種類及び侵害の程度,免責又は責任制限の範囲及び程度等に応じ,当該規定の目的の正当性並びにその目的達成の手段として免責又は責任制限を認めることの合理性及び必要性を総合的に考慮して判断すべきである」

郵便法68条,73条の目的について、

「郵便の役務をなるべく安い料金で,あまねく,公平に提供することによって,公共の福祉を増進すること」を目的として制定されたものであり(法1条),法68条,73条が規定する免責又は責任制限もこの目的を達成するために設けられたものであると解される…仮に…民法や国家賠償法の定める原則に従って損害賠償をしなければならないとすれば,それによる金銭負担が多額となる可能性があるだけでなく、…多くの労力と費用を要することにもなるから,その結果,料金の値上げにつながり,上記目的の達成が害されるおそれがある。…したがって,上記目的の下に運営される郵便制度が極めて重要な社会基盤の一つであることを考慮すると,法68条,73条が郵便物に関する損害賠償の対象及び範囲に限定を加えた目的は,正当なものであるということができる。」

書留郵便について、郵便局員の故意または重過失による損害の場合にも国の責任を免除・制限している郵便法第68条は憲法違反ではないか?

「書留は…差出人がこれに対し特別の料金を負担するものである。そして,書留郵便物が適正かつ確実に配達されることに対する信頼は…書留郵便物の利用に関係を有する者にとっても法的に保護されるべき利益であるということができる。しかし,書留郵便物も大量であり,限られた人員と費用の制約の中で処理されなければならないものであるから,郵便業務従事者の軽過失による不法行為に基づく損害の発生は避けることのできない事柄である。限られた人員と費用の制約の中で日々大量の郵便物をなるべく安い料金で,あまねく,公平に処理しなければならないという郵便事業の特質は,書留郵便物についても異なるものではないから,法1条に定める目的を達成するため,郵便業務従事者の軽過失による不法行為に基づき損害が生じたにとどまる場合には,法68条,73条に基づき国の損害賠償責任を免除し,又は制限することは,やむを得ないものであり,憲法17条に違反するものではないということができる。しかしながら,上記のような記録をすることが定められている書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為に基づき損害が生ずるようなことは,通常の職務規範に従って業務執行がされている限り,ごく例外的な場合にとどまるはずであって,このような事態は,書留の制度に対する信頼を著しく損なうものといわなければならない。そうすると,このような例外的な場合にまで国の損害賠償責任を免除し,又は制限しなければ法1条に定める目的を達成することができないとは到底考えられず,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為についてまで免責又は責任制限を認める規定に合理性があるとは認め難い。
…以上によれば,法68条,73条の規定のうち,書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失によって損害が生じた場合に,不法行為に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は,憲法17条が立法府に付与した裁量の範囲を逸脱したものであるといわざるを得ず,同条に違反し,無効であるというべきである。」


特別送達郵便について、郵便局員の故意、重過失はもちろんのこと、軽過失についても国の責任を免除・制限している部分は憲法に違反しないか?

※特別送達郵便とは、日本において、民事訴訟法に規定する方法により裁判所や公証役場から訴訟関係人などに送達すべき書類を送達し、その送達の事実を証明する、郵便の特殊取扱のことです。

「特別送達は,民訴法第1編第5章第3節に定める訴訟法上の送達の実施方法であり(民訴法99条),国民の権利を実現する手続の進行に不可欠なものであるから,特別送達郵便物については,適正な手順に従い確実に受送達者に送達されることが特に強く要請される…そして,特別送達郵便物は,書留郵便物全体のうちのごく一部にとどまることがうかがわれる上に,書留料金に加えた特別の料金が必要とされている。これら特別送達郵便物の特殊性に照らすと,法68条,73条に規定する免責又は責任制限を設けることの根拠である法1条に定める目的自体は前記のとおり正当であるが,特別送達郵便物については,郵便業務従事者の軽過失による不法行為から生じた損害の賠償責任を肯定したからといって,直ちに,その目的の達成が害されるということはできず,上記各条に規定する免責又は責任制限に合理性,必要性があるということは困難であり,そのような免責又は責任制限の規定を設けたことは,憲法17条が立法府に付与した裁量の範囲を逸脱したものであるといわなければならない。そうすると,法68条,73条の規定のうち,特別送達郵便物について,郵便業務従事者の軽過失による不法行為に基づき損害が生じた場合に,国家賠償法に基づく国の損害賠償責任を免除し,又は制限している部分は,憲法17条に違反し,無効であるというべきである」


判例の引用が長くなってしまいました。


郵便法第1条をあげておきます。

郵便法第1条 (この法律の目的)  
この法律は、郵便の役務をなるべく安い料金で、あまねく、公平に提供することによつて、公共の福祉を増進することを目的とする。


そう、郵便事業は低料金で、あまねく、公平に提供することを目的としていますので、事あるごとに損害賠償請求を喰らってしまうと、この目的を達成することができなくなってしまう可能性があります。

だから、国の責任を免除・制限する郵便法68条・73条の目的自体は正当なのですが、その内容が少し、憲法第17条に照らして不合理であるということなんです。

この判例は68条、73条の全てを違憲としたのではなく一部を違憲とした点で特徴があります。

つまり、郵便法68条、73条のうち、

書留郵便について、郵便局員の故意・重過失についても国の責任を免除・制限している部分

特別送達郵便について、郵便局員の故意・重過失はもちろん、軽過失についても責任を免除・制限している部分

が違憲だということになります。


この判決を受け、現在の郵便法では賠償に関しては次のように規定されています。

郵便法第50条 損害賠償の範囲
3項 会社は、郵便の業務に従事する者の故意又は重大な過失により、第一項各号に規定する郵便物その他この法律若しくはこの法律に基づく総務省令又は郵便約款の定めるところにより引受け及び配達の記録をする郵便物(次項において「記録郵便物」という。)に係る郵便の役務をその本旨に従つて提供せず、又は提供することができなかつたときは、これによつて生じた損害を賠償する責任を負う。ただし、その損害の全部又は一部についてこの法律の他の規定により賠償を受けることができるときは、その全部又は一部については、この限りでない。
4項 記録郵便物に係る郵便の役務のうち特別送達の取扱いその他総務省令で定めるものに関する前項の規定の適用については、同項中「重大な過失」とあるのは、「過失」とする。



ちゃんと判例の内容が反映された内容になっていますね♪♪


本日は以上となります。


お読みいただきありがとうございました♪




また、明日から1週間の始まりです。頑張っていきましょう!


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行政書士試験に判例は欠かせない!重要判例集

posted by 行政書士試験WEBアドバイザー YASUHIRO at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | (憲法)人権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

(憲法)外務省機密漏洩事件



おはようございます。

少しずつですが涼しくなってきましたね♪(昼間はまだ暑いですが…)

今日から9月に突入です。試験まで残すところ2か月と少しとなりました。焦ってらっしゃる方もいるのではないでしょうか?

ここからの2カ月はとても重要で、決して手を抜くことはできません。気合いを入れていきましょう!



突然ですが、皆さんは人を「そそのかし」た事ってあります?


そそのかしとは…よくない事柄に関して、誘ったりおだてたりして、それを行うように仕向けること。という意味です。


本日は、外務省の職員をそそのかし、その機密を入手して国家公務員法違反で起訴されたとある記者の話です。


【事例】
毎日新聞政治部の記者A(男)は、国家機密の文書を入手する目的で、外務省の担当者B(女)に積極的に近づき、自分に対して好意を抱かせ、肉体関係を持つまでに至った。その関係を利用して、AはBに対して執拗に機密文書を持ちだすように仕向け、十数回にわたり機密文書を持ちださせた。Aは国家機密の漏えいをそそのかしたとして国家公務員法111条、109条12号、100条1項違反で起訴された。


もう30年以上も前の事件ですが、記者魂というものはすごいものを感じさせます。今ではさすがにこのような取材活動はしていないと思いますが、プロ根性を感じさせます。ただ、法令に違反してはいけませんが…


さて、この事件、AはBをそそのかしたとして起訴されたわけですが、一体、そそのかしとは何なのか、又、そそのかしであれば全ての取材が違法性を帯びるのかなど、取材の自由との兼ね合いが問題となります。


判例は、

国家公務員法111条にいう同法109条12号、100条1項所定の行為の「そそのかし」とは、右109条12号、100条1項所定の秘密漏示行為を実行させる目的をもつて、公務員に対し、その行為を実行する決意を新に生じさせるに足りる慫慂行為をすることを意味するもの

 ※慫慂(しょうよう)…そうするように誘って、しきりに勧めること

とし、Aの行為を国家公務員法111条、109条12号、100条1項の「そそのかし」だとしました。


国家公務員法111条
第109条第2号より第4号まで及び第12号又は前条第1項第1号、第3号から第7号まで、第9号から第15号まで、第18号及び第20号に掲げる行為を企て、命じ、故意にこれを容認し、そそのかし又はほう助をした者は、それぞれ各本条の刑に処する。



では、そそのかし行為であれば、全ての取材活動が違法性を帯びるのか?

判例は、

報道機関の国政に関する報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、いわゆる国民の知る権利に奉仕するものであるから、報道の自由は、憲法21条が保障する表現の自由のうちでも特に重要なものであり、また、このような報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由もまた、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない。そして、報道機関の国政に関する取材行為は、国家秘密の探知という点で公務員の守秘義務と対立拮抗するものであり、時としては誘導・唆誘的性質を伴うものであるから、報道機関が取材の目的で公務員に対し秘密を漏示するようにそそのかしたからといつて、そのことだけで、直ちに当該行為の違法性が推定されるものと解するのは相当ではなく、報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。

としています。


簡単にすると、憲法上保障された報道の自由を確保するためになくてはならない取材の自由は憲法上十分に尊重されなければならないものであり、取材がそそのかし的な性質を持っていたとしても、それが真に報道目的から出たもので、手段方法が社会観念上是認されるものであれば、違法性はなく正当な業務だと言えるという事です。


では、取材活動が違法性を帯びる場合はどのような場合か?

判例は、

報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでないことはいうまでもなく、取材の手段・方法が贈賄、脅迫、強要等の一般の刑罰法令に触れる行為を伴う場合は勿論、その手段・方法が一般の刑罰法令に触れないものであつても、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躪する等法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合にも、正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びるものといわなければならない。

としています。

この判例は、取材活動がその自由を逸脱し、違法性を帯びる場合として、

一つはその活動が「刑罰法規に触れる場合」、もう一つは「刑罰法規に触れないにしても法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合」としてます。


今回の事件は、

同女を利用する必要がなくなるや、同女との右関係を消滅させてその後は同女を顧みなくなつたものであつて、取材対象者であるBの個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙したものといわざるをえず、このような被告人の取材行為は、その手段・方法において法秩序全体の精神に照らし社会観念上、到底是認することのできない不相当なものであるから、正当な取材活動の範囲を逸脱している


として、国家公務員法111条の罪を構成するとして有罪判決を受けております。


まぁ、女性を騙してその気にさせて情報を出させてるんですから、‘正当な取材活動'とは言えないですよねぇ。それにしてもよくこんな大それたことができたもんです。それほど切羽詰まっていたのか、それとも記者魂の表れなのか分かりませんが…


簡単に要約します。

憲法上取材の自由が‘尊重’されているとは言っても、取材が刑罰法規に触れる場合や触れなくても社会観念上是認できない態様であれば違法性を帯び、そそのかし行為であっても真に報道目的から出たもので、その手段方法が社会観念上是認することのできるものであれば正当な業務という事で違法性を帯びない。今回のAの行為は刑罰法規には触れないが、人格を著しく蹂躙し、社会観念上、到底是認することのできないものであり違法だ。


という感じです。




本日は以上となります。


お読みいただきありがとうございました。


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posted by 行政書士試験WEBアドバイザー YASUHIRO at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | (憲法)人権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月25日

(憲法)尊属殺法定刑違憲事件



今日は、最高裁が既存の法律を初めて‘違憲'と判断した事件についてです。


まずは、日本国憲法第14条第1項を見てみましょう。


日本国憲法第14条第1項  
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


法下の平等について定めた条文です。


では事案を見てみましょう。


【事案】
娘Aは日頃から父親Bからひどい虐待(性的虐待)を受けており、父娘の間で子供をもうけさせられるなどまるで夫婦のような生活を強制されてきた。ある日、娘Aは他の男性と結婚したい旨を父親Bに打ち明けると、激怒したBはAを監禁し、再び虐待を行った。そこで、Aは思わずBの首を絞め殺害し、逮捕された。


40年以上前の事件ですが、内容があまりにも過激です。娘Aはさぞつらい思いをしてきたことでしょう。


この事件はいわゆる「尊属殺」というもので、どんな事情があれ実の父親を殺害した場合は、当時の刑法200条(現在は削除済)が適用され、その法定刑は普通殺人罪の刑罰と比べて、極めて重く、死刑又は無期懲役に限られていました。(減軽規定はありましたが、最大限減軽しても懲役3年6カ月が限度で、執行猶予を付すことはできませんでした)


そこで、この尊属殺人罪(刑法200条)の刑罰が、普通殺人罪(刑法199条)の刑罰に比して極めて重く、法の下の平等を定めた憲法14条に違反するのではないかが争われたのでした。


判旨は以下の通りです。

・普通殺人罪の他に尊属殺人罪という規定を設けて、その刑罰を加重すること自体は憲法に違反するのか?


刑法200条の立法目的は、尊属を卑属またはその配偶者が殺害することをもつて一般に高度の社会的道義的非難に値するものとし、かかる所為を通常の殺人の場合より厳重に処罰し、もつて特に強くこれを禁圧しようとするにあるものと解される。ところで、およそ、親族は、婚姻と血縁とを主たる基盤とし、互いに自然的な敬愛と親密の情によつて結ばれていると同時に、その間おのずから長幼の別や責任の分担に伴う一定の秩序が存し、通常、卑属は父母、祖父母等の直系尊属により養育されて成人するのみならず、尊属は、社会的にも卑属の所為につき法律上、道義上の責任を負うのであつて、尊属に対する尊重報恩は、社会生活上の基本的道義というべく、このような自然的情愛ないし普遍的倫理の維持は、刑法上の保護に値するものといわなければならない。しかるに、自己または配偶者の直系尊属を殺害するがごとき行為はかかる結合の破壊であつて、それ自体人倫の大本に反し、かかる行為をあえてした者の背倫理性は特に重い非難に値するということができる。
このような点を考えれば、尊属の殺害は通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとして、このことをその処罰に反映させても、あながち不合理であるとはいえない。そこで、被害者が尊属であることを犯情のひとつとして具体的事件の量刑上重視することは許されるものであるのみならず、さらに進んでこのことを類型化し、法律上、刑の加重要件とする規定を設けても、かかる差別的取扱いをもつてただちに合理的な根拠を欠くものと断ずることはできず、したがつてまた、憲法14条1項に違反するということもできないものと解する。



なるほど、まさにその通りという気がします。立法の目的自体は正当であり、憲法14条に何ら反することはないということです。



・では、尊属殺人罪の法定刑を死刑または無期懲役に限っている点において、刑罰が極端に重いがこの点は憲法に違反しないか?


普通殺のほかに尊属殺という特別の罪を設け、その刑を加重すること自体はただちに違憲であるとはいえないのであるが、しかしながら、刑罰加重の程度いかんによつては、かかる差別の合理性を否定すべき場合がないとはいえない。すなわち、加重の程度が極端であつて、前示のごとき立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法14条1項に違反して無効であるとしなければならない。
この観点から刑法200条をみるに、同条の法定刑は死刑および無期懲役刑のみであり、普通殺人罪に関する同法199条の法定刑が、死刑、無期懲役刑のほか3年以上の有期懲役刑となつているのと比較して、刑種選択の範囲が極めて重い刑に限られていることは明らかである。もつとも、現行刑法にはいくつかの減軽規定が存し、これによつて法定刑を修正しうるのであるが、現行法上許される2回の減軽を加えても、尊属殺につき有罪とされた卑属に対して刑を言い渡すべきときには、処断刑の下限は懲役3年6月を下ることがなく、その結果として、いかに酌量すべき情状があろうとも法律上刑の執行を猶予することはできないのであり、普通殺の場合とは著しい対照をなすものといわなければならない。

…尊属殺の法定刑は、それが死刑または無期懲役刑に限られている点(現行刑法上、これは外患誘致罪を除いて最も重いものである。)においてあまりにも厳しいものというべく、上記のごとき立法目的、すなわち、尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしては、これにつき十分納得すべき説明がつきかねるところであり、合理的根拠に基づく差別的取扱いとして正当化することはとうていできない。

…以上のしだいで、刑法200条は、尊属殺の法定刑を死刑または無期懲役刑のみに限つている点において、その立法目的達成のため必要な限度を遥かに超え、普通殺に関する刑法199条の法定刑に比し著しく不合理な差別的取扱いをするものと認められ、憲法14条1項に違反して無効であるとしなければならない。




立法の目的は違憲ではないが、それを達成するための手段(刑罰を死刑又は無期懲役に限っていること)が普通殺人の刑罰と比べてあまりにも重すぎて、この点は法の下の平等を定めた14条に照らして違憲だという事ですね。


注意すべきは、刑法旧200条の立法目的自体は違憲ではないが、その目的を達成するための手段である刑罰があまりに重すぎて違憲だという事です。


尊属殺人の規定を設けてその刑を普通殺人に比べて多少加重するくらいなら問題ないけど、極端に重すぎる刑罰は14条違反になります。


現在、刑法200条はこの違憲判決を受け既に削除されており、この事案の結末としては、娘Aは普通殺人罪の適用を受け、懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡されました。


現代社会においては、自らの親や子供を手にかける事件がしばしば発生しますが、どんな事情があるにしろ人殺しはよくないですし、自分の親族を手にかけるなんて言語道断だと思います。


時代が変わって、人と人とのつながりが希薄化してきたことが原因なのかどうなのかよくわかりませんが、親はいつまでも大事にしてもらいたいものです。




お読みいただきありがとうございました。


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posted by 行政書士試験WEBアドバイザー YASUHIRO at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | (憲法)人権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月25日

(憲法)私人間効力について〜学説と判例〜


今日は、私人間における人権保障についてです。

本来、憲法の種々の人権規定は国家と私人とを規律するものであって、私人間については私的自治の原則で解決すべきであって、憲法は適用されないはずなんです。

しかし、現代においては、公権力に匹敵するような社会的権力も多くあり、そういった権力による人権侵害の可能性も高まってきています。そこで、憲法の人権規定を私人間でも適用できないか、ということが問題となっています。


これに対しては3つの学説があります。結構重要です。

1、無効力説

2、直接適用説

3、間接適用説 
   です。


無効力説というのは、私人間には憲法の規定は適用されないというものです。

(理由)
憲法の人権規定はあくまで国家と私人とを規律するためのものであって、私人間の争いは私的自治の原則で解決すべき


直接適用説というのは、文字通り、憲法の人権規定は私人間においても直接適用され、私人が私人に対して直憲法上の権利を主張することができるというものです。

(理由)
社会的権力が公権力に匹敵する力を持っているのに、私人間に憲法が適用されないとするのは、憲法の人権尊重の精神に反することとなるから。


間接適用説というのは、憲法の規定が私人間に直接適用されはしないものの、憲法の趣旨を私法の一般条項(民法1条、90条)を介して適用し、憲法の人権規定の価値を私人間にも及ぼすというものです。

(理由)
無効力説では憲法の人権保障の精神が十分役目を果たせず、私人の権利を保護することはできない。かといって直接適用説では私的自治の原則を否定してしまう可能性が出てくる。


判例・通説は間接適用説の立場に立っています。重要な判例をあげておきます。

三菱樹脂事件(最大判昭48.12.12)

日産自動車事件(最大判昭56.3.24)

昭和女子大事件(最大判昭49.7.19)


尚、憲法の人権規定の中でも権利の性質上、私人間に直接適用されるものもあります。
→ 15条4項・18条・24条・27条3項・28条




以上、お読みいただきありがとうございました。



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posted by 行政書士試験WEBアドバイザー YASUHIRO at 10:29| Comment(2) | TrackBack(0) | (憲法)人権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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